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個人的アニメ哲学2

まさかの続編

入門でも一応哲学をやったので、ちゃんと哲学的な問いを立ててみよう
(アニメに絞ってる時点で哲学的ではないとかいう話は置いておく)


今回の問いは
「アニオタを名乗るのに好きなアニメだけを見ていていいのか」
にする。

アニメ見始めのころは何も知らないから盲目的に何でも見てた気がするけど
この年になると「脚本が誰だから」とか「監督が誰だから」とあれこれ理由をつけて
1話すら見ずに食わず嫌いをしてるアニメのほうが多くなってきた。
そんな状態にも関わらず「自分はアニオタです」と宣言していいのか、自負していいのか疑問に思って
今回の問いを立てたわけ。
ただ、この問いについて考えるにあたって
「アニメなんてただの趣味なんだし好きなことだけやってりゃいいだろ」
という解答は問いの存在意義を根底から否定する上に、趣味に対する向上心など微塵も感じられないので
除外することにする。



さて、この問いについて考える上でのとっかかりとして、最後に書いた「趣味に対する向上心」を手始めに
考察を巡らせていくことにしよう

まず趣味という言葉の意味を考えてみる。Wikipedia先生によると、趣味とは
「人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽ないしホビー(英: hobby)」
または
「物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英: taste)。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい/わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。」
とある。
我々が普段用いる「趣味」とは前者のほうであるが、アニメ鑑賞という話になると後者の意味合いのほうが強く出てくるように思う。
よってここでは「趣味」という言葉を、「アニメを選ぶ審美眼」という言葉として用いることにする。

「趣味」を「アニメを選ぶ審美眼」とするならば、趣味に対する向上心と言うものは必要という結論に必然的に至るだろう
ゴミを見て「あれは美しい」という奴がいたら、流石に気は確かかと疑わざるを得ない
しかし、美しさの基準は人それぞれである。ここに趣味に対する「向上心」の難しさがある。

美の基準、すなわち希求する美の最終目標が人によって異なるのであれば、当然、「美のベクトル」はそれぞれ異なってくる
これは一つにまとめようとするべきものではないし、否定するものでもない。ならば趣味に対する向上心、
いわば「審美眼を向上させる」にはどうすればよいのか。

それは、「自分自身の美のベクトルを終点まで伸ばしていく」ことであると考える。
個人個人が追い求める美の最終地点、すなわち理想の美まで自分自身の美のベクトルを延長させていくことで
自分の持つ「理想美」への審美眼はどんどん研ぎ澄まされていく。
また「理想美」を1点とするのではなく、ある程度の「集合」と考えるのであれば、
似通った美のベクトルを持った他人や作品、思想を注意深く鑑賞、考察することによって、
自らが持つ美のベクトルが理想美へと延長されることを意味するのである。

最初の問いに戻ろう
「アニオタを名乗るのに好きなアニメだけを見ていていいのか」
という問いであったが、これに対する解答として、
「自らが好むアニメ、すなわち自らの理想美に近しいアニメを、注意深く鑑賞、考察することによって審美眼が磨かれるため、好きなアニメだけを見ていても問題はない」
を提唱したい。
ここに至るまでの論理展開に些か無理があった気がしなくもないが所詮ブログなので気にしない





追伸
寿司、焼肉、鰻食わせろ

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